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"Chin up." 治せない病を治すために、胸を張って前に進む
―Dr. 木下茂―

2022/2/4

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・左:木下 茂 先生 右:インタビュアー(風間友里加)
・文責:因間朱里

木下 茂 先生(京都府立医科大学特任講座感覚器未来医療学教授)
治せなかった眼の難病の治療法をいくつも世に送り出し、数多くの患者さんを救ってきた眼科医の木下茂先生。 “The Ophthalmologist top 100 power list” 、世界で最も影響力のある眼科医トップ100に選ばれるほどの実績の裏側にあったのは、 "Chin up.” という言葉でした。国内外で絶大な信頼を置かれる先生が貫き通してきた信念は何だったのか。そこには、あらゆる医師・医学生が手本とするべき究極の臨床医像がありました。

■□  臨床医として、治療も研究も「患者さんを治すこと」をいちばん大切に

--今いちばん力を入れられている活動は何になるんでしょうか。

 私は今71歳ですから、頭が動くのはおそらくあと10年くらい。20歳の人と同じだけのことをやる時間はもう残されていないので、これからの10年をいかに生きるか、ということを考えています。そのうえで、今は培養した角膜内皮細胞を細胞注入するという新しい治療法の完成に取り組んでいます。その詳細な内容はNEJM(New England Journal of Medicine)に論文として掲載されましたが、「最後までやる」、つまり臨床の歯車に組み込まれるところまで持っていくことを大事にしたいんです。再生医療でも、あるいは医薬品や医療機器でもそうですが、医療の歯車に組み込まれるためには、FDAやEMAそしてPMDAのような規制当局から製品としての承認を受ける必要があります。承認を得て臨床現場で使えるようになれば、その製品や手術方法は現場で改良されていきます。もちろん改良されていくうちに、そもそも製品や手法の確立に自分が関わったという事実は消えてしまうかもしれない。でも、組み込まれるところまでいけなければ、その研究は「いいところまではいったけれど承認を取れずに消えたもの」でしかないわけですし、実際そうやって消えていったものを私は山のように見てきました。臨床系の研究は、特に、最終ゴールである臨床現場での治療にまで届けることが大切なので、今は細胞注入をなんとかして世の中に出したいと思ってやっています。
 そしてもうひとつ、やはり診療ですね。患者さんによっては、いわば人生を賭けて私の前に現れる方もいます。そんな患者さんをあと何年かだけでも「見える」状態でつなげられたら、という思いで診療にも取り組んでいます。

--「世界最高峰の医療を優しい心とともに提供することを目指しています」という言葉があったかと思います。私にはその「優しい心」というのがとても印象的で、今の先生のお言葉にも患者さんへの愛ないしは責任感を感じました。

 そんなに大上段にかまえて、理想形でそう言っているわけでもないんですけどね。自分が眼科を始めた時は、それはもう悲壮な状態だったんですよ。自分の目の前を通っていく患者さんに対して、治療という名のもと色々やってみても結局救えない、みんな見えない状態になっていく。そうやって治せないのを見ていると、回数を重ねるごとに「どうせダメだ」という考えになってしまうんですよ。それをなんとか、ひとつでもふたつでも難治な病気を治せないか、そう思いながらこれまでやってきました。

--もうひとつ、 “be international” というのがありましたよね。そちらは先生のご経験、例えばハーバードへの留学と何か関係しているんでしょうか。

 そうですね、 “be international” というのも大きなキーワードにしてきました。でも、留学との関係は特にないですかね。
 私は29~31歳の3年間、米国に留学に行ったのですが、最初の1年目はほとんど押しかけみたいなものでしたので、1年目は確かお金はもらえなかったんです。母親に「1年だけサポートをしてくれ、あとは何とかしてくるから」と頼みましたよ(笑)。結果的に2, 3年目はNIHのグラントをもらえたわけですが、留学にあたって、そのグラントを待って留学開始を1年遅らせるかという話もありはしたんです。でも、そんなものを待っていたらいつチャンスが消えてしまうか分からないと思って、とにかく渡米したというのが始まりでした。
 3年間が終わって、私のボスがピッツバーグに行くことになった時に、一緒に行くかという話になったんです。でも、アメリカで医師をやるなら、もう一度レジデントからやり直さないといけない。それは自分の考えにはあわなかったので、断って帰国しました。「もう二度とアメリカには行かん」と思いながら(笑)。

--どうしてまたそんなことを思われたんでしょうか(笑)。

 何か具体的に嫌なことがあったということもないのだけれど、Research Fellowとしての3年間を経験して、こうやって研究を10年やれと言われても、自分はやはり臨床医としてやりたいからそれは違うかな、と感じたんですかね。

--「アメリカには戻らない」と思われながら、それでも “be international” をモットーに掲げてこられたのはなぜなんでしょうか。

 帰ってきてから2, 3年はずっと「戻らない」と思っていたし、実際本当に渡米していません。次に渡米するきっかけになったのは、実は友達に「そんなこと言わずに学会でアメリカに遊びに行こうよ」と誘われて、「じゃあ行ってゴルフでもしようかな」というくらいだったんです。でも、そうやって数回行くうちにまた感覚が戻ってきて、アメリカの嫌なところだけではなくて良いところも見えてきた、というのは影響しているかもしれません。

--私はアメリカからの帰国子女なのですが、帰国した時に「もうアメリカには戻らない」と思っていたので、先生のお気持ちもよく分かります。先生がお考えになる日米の違いは何かありますか。

 アメリカに行ったから日本が分かったな、と思います。アメリカの良さは、ものすごくaggressiveということ。そのaggressiveさは良いものだし、ある意味fairではあるけれども、どこまででもcompetitiveだから、アメリカで頑張り続けるのはとてもエネルギーがいるだろうし、これでは早々に引退したくもなるだろうなと感じました。もうひとつ、アメリカ人はほとんど周りの人のことを気にしない。基本的に和気あいあいというのはなくて、すべて自分で完結する感じですよね。

--まさにそれが私も日本に帰ってこようと思った理由でした。日本が住みやすいのは、やはりみんながそれぞれのことを考えて秩序を守って生活しているからであって、アメリカにはその文化がないから、生活しづらかったです。

 司馬遼太郎の書いたものを引用すると、日本人というのは、朝鮮半島から争いを避けて逃げてきた、人類学的に言うと最も弱い民族なんですよ。争う民族は必ず滅びる、なぜなら自分が強くてもまた必ず自分より強い民族が出てくるからです。日本人はそれが嫌だから逃げてきた、しかも島国なので周囲から守られてきたという背景があって、調和を好むんですよね。だから何が起きても最終的には「まあまあ」というところで落ち着くんだと思います。

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