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"Chin up." 治せない病を治すために、胸を張って前に進む
―Dr. 木下茂―

2022/2/4

■□  "Chin up." の精神で、強い自分で正しいと思うことをやり抜けば、必ず自然の真実に肉薄できて、治せない病も治すことができる

--先生の研究についても伺いたいです。先生が渡米された時点では角膜内皮細胞に関する研究はまだほとんど前例がない状態だったかと思うのですが、そこでなぜ先生はその分野に入っていかれたんでしょうか。

 私が留学した頃は、ocular surface、つまり眼の表面をひとつのユニットとして考え、それに関する研究が大切、と言われていた時代でした。渡米していちばん最初に取り組んだのが、角膜上皮細胞は動いているのかいないのかを調べる、ということでした。ほかにも同じことを言われたフェローは数人いたようだったのですが、みんな諦めていなくなっていて。対して自分は、1年だけではなく2, 3年間いるつもりでしたから、残るためには他の人と同じことをしていてもしょうがないなと思い、色々と考えて実験のやり方を工夫しました。
 セクションを切ってしまったら全部の細胞を見ることはできないので、flat-mountにしないといけない。さらに、上皮というのは5-6層ありますから、それを少し培養してsingle cell layerにしたものを取り出した後で、sex chromatinで染めて見てみようかな、というのが私の考えた方法でした。そこから雄と雌のあいだでの同種表層角膜移植をやってみたら、角膜上皮細胞は真ん中に向けて動いているということの傍証が出てきて、そこから角膜に関する研究を始めたんです。
 その次にボスに言われたのが、角膜上皮の分化が基底膜の有無で変わるかどうかを調べなさい、ということでした。ところが2年目の途中くらいに、とある学会に抄録の提出を終えてoral presentationすることになり、発表1カ月前の話す準備をしていたような時期になって、結果の解釈を自分が間違えていたことに気付いたんです。大きな大切な学会だったので、これはまずい、まずいけれどお茶を濁して適当なことを言うのは絶対だめだ…と焦って、同僚の女性に相談しました。そうしたら「とにかくボスに言いなさい」と。それでボスに言ったら、ひとこと、 “Chin up.” と言われたんですよ。当時の僕は英語の意味もよく分からなくて、さては「お前はクビや」と言われたか、そう言われてもしょうがないくらいのことだなあなどと思いながら先ほどの女性に話したら、その真逆で「胸を張れ、今あることをそのまま言え」と言われていたんだと教えてもらったんです。その “Chin up.” というのが、今の自分に至るまでずっとキーになっているなと思います。だから自分のところに若手が相談に来た時には「その時に正しいと自分が思うことをその通りに言えばいい」ということはよく言っていますね。日本は「正しい」とされる狭い道を行くようなところがあるけれど、アメリカはもう少し広い幅の中で、ぶれながら、壁にぶつかりながら前に進めばいい、という傾向があります。誰もが知っている有名なジャーナルに掲載された論文だって、ある意味で50%は間違ってるんですよ。意図的な間違いというのはもちろんやってはいけません。でも、間違いというのが進歩につながっていく、そう考えるようになったのには、やはりあのボスの一言が大きかったですね。
 そんなことがありつつ、その研究の延長で、角膜と結膜上皮を取って細胞がどうなるかを調べてみたら、「角膜上皮を取ったら結膜に変わる」と言われていたそれまでの定説通りにはならないことが分かり、そこから角膜輪部という部位に特殊な角膜上皮、progenitor cellがあるということを見出しました。それが他のグループから1986年に出てきた「角膜上皮のstem cell location」という論文に繋がっています。自分があの時もう少しaggressiveにできていれば、stem cell locationの存在をsuggestiveではなく断定という形で報告できたのかなと思います。でも、いつも答えは自然が知っていて、人間はその答えの周りであれやこれやとやってみているだけなので、本当に正しい答えはいずれきちんと分かってくる、だから誰の成果かどうかなんて関係ない、というように考えています。「それでも地球は回っている」だって同じことですよね。我々がやっている研究は、自然の現象にどれだけ肉薄しているかということ、それが大事だというのをその時に学びました。
 ほかにも “Chin up.” という言葉は随所で活きてきていますが、やはり自分の中には強い自分と弱い自分がいて、そのどちらかで生きていかなければならないとなった時、あの言葉のおかげで強い自分としてやってこられていると思います。

--何かをやればやるほど壁にぶつかったり、上に上がれば上がるほど対応しなければいけない物事が増えたりして、時に投げ出したくなることもあるのではないかと思うのですが、そうした場合に先生はどうされるんでしょうか。

 私は “continuity” 、言い換えれば「継続は力なり」や「続けるものは本物である」ということをとても大事にしています。もうひとつは、 “diversity” を認めること。それぞれの人がそれぞれの考えを持っていて、その考えは一見バラバラだとしても、真実があるのであれば、必ずその真実は残りますよね。
 さらに付け加えるなら “originality” です。100人中99人が同じことを言っていても、自分1人が違うことを考えるのであれば、自分の「正しい」という感覚を信じて、それを5年でも10年でもかけて証明すればいい。我々は瞬間瞬間を二次元・三次元的に生きていますが、実際は四次元的だと思います。というのも、今の常識が2030年にも通用するわけではない。それなのに私たちは、明日のことすら予測が難しいような状況で、今という枠組みの中だけで話し考えていることがままありますから、4つめの軸として “t” (時間軸)を意識しておくことは大事だと思います。
 自分の人生を振り返ってみたら、やっぱり良い時と悪い時がありました。そして、良い時は何をやってもうまくいくからいいんです。厳しい時期をいかに上手にmanageして生きていけるか、それがキーではないかと思います。強い自分と弱い自分、あるいはpositiveな自分とnegativeな自分というように、自分の中には必ず2人の自分がいますが、できるだけ強い方の自分でいけるように意思決定することが大事であって、その意思決定は年を重ねるにつれて意識的にコントロールできるようになるんですよ。そうやって意思決定していけるようになると、厳しい時期もある意味楽しみながら耐えられるように感じます。
 まあ、何か困ったことがあっても、いずれどうにか解決します。「明けない夜はない」と思いますね。

--「治せない病を治す」という信念で研究をされてきているのだと思うのですが、臨床で見つけた課題をリバース・トランスレーショナル研究として取り組んだ、具体的なケースというのはこれまでにありましたか。

 まずは角膜化学腐食でしょうかね。私がその課題に取り組み始めた当時は角膜のstem cell locationというのは発見されていなかったので、stem cellの存在しない部位を移植したところでうまくいかないということを知らなかったんです。次がMoorn潰瘍。当時は治療できないとされていた重い疾患ですが、どうやったら治せるかを突き止め、本当に治せるようになった。その治療法で、各地の大学病院に入院していた患者さんを私のところで何人も治しました。日本全国にいたとても困っていた人たちが私のところに送られてくるようになったというのは、「治せるようになった」というのがホンモノだったということの証明だったと思います。3つめのStevens-Johnson症候群は本当に難しくて、昔は「この病気には外科的に手を出してはいけない」とされていました。それを、少しでも手を出せるような取っ掛かりを、ということで2002年くらいから取り組み、今は慢性期であってもそれなりに治せるようになってきています。
 Unmet medical needsを考える時、まずは「今治せない病気をなんとかしようと思うか思わないか」が大事です。そして、治したいと思えば、治せます。もちろん最近はどんどん治せる病気が増えてきました。眼科領域で言えば、網膜剥離だって治せる時代になってきています。でも、やはりまだ治せない病気というのが存在する。そうすると患者さんは、治してもらうために様々な医者のところを転々とする、要はドクターショッピングをするしかないわけです。そんな中で、自分の前に来た患者さんの病気が、なぜそのような病気になっているのか、どうしたらそれを治せるのかが分かっていれば、「これは治せる」と言い切れるじゃないですか。私はそうでありたいと思っています。
 治療法を考える時、私はまず理論が最初になくてもいいと思うんです。ある病気があって、でもあれやこれやしたら治る、治るのならその過程はブラックボックスでもいい。もちろん、臨床研究をブラックボックス状態で勝手にやるわけにいかないのも事実ですが、それでも多くの治療法というのは、理論は後からついてきているものです。
 我々医者が、少なくとも臨床医が目指さなければいけないのは、診断法よりも治療法を開発することだと思います。その時に私は、「センサー」、つまり自分の感覚や感性で「これはこうなのでは?」というところで見つかるものがすごく多いと感じています。将棋の世界でもAIが勝つ時代ですから、最終的にはAIの方が優っているかもしれません。ただ、網羅的にアプローチしていくAIと違って、我々人間はcandidate approachを行うことになる。私たちがその病気についてずっと向き合って考えて、「こうなるんじゃないか」という第六感も含めてアプローチすることが極めて大切であると、私は考えています。

--先生のお話を伺っていると、先生が進まれた頃の眼科というのは未知の領域がものすごく多かったように感じます。

 いやあ、おっしゃる通りですよ。自分が眼科に入ったそもそもはしょうがなかったからみたいなところがあるんですけどね。実は学生時代は心臓血管外科に行くとほぼ決めていたのですが、とある12月の土曜日の夕方とかだったか、教育担当の先生と、のちに阪大の教授になった当時2年目の先生と話しているうちに、なぜか眼科に入ることになってしまって…。眼科が悪い診療科というわけでもないのに、「まずいなあ」と悩んだのを覚えています(笑)。ただ、自分なりの言い訳もありました。当時、大学病院の外来に1日で500人の患者さんが来るのが眼科という場所だったんです。そんな人数が来ているということは必然的に眼科医が足りない、じゃあ誰かが眼科医をやらなかったらどうなってしまうんだ、というのがありました。ふたつめに、私の学生時代には、メジャー科に行くと大学に戻ってこられないこともあったんです。でも私は、治らない病気に対しては何か研究をしないと治せないだろうと思っていたから、マイナー科である眼科なら大学で研究をして治療法の追求もできるだろう、という意図もあって、最終的に眼科に進みました。

--未知の領域が多いからこそ、研究の範囲も広いですよね。

 眼科はこの40年くらいでものすごく進歩しました。私が眼科医を始めた頃、まずレーザーはありませんでした。白内障手術も、今では超音波手術がほとんどですが、そのかけらもありませんでしたし、ブドウ膜炎については何も分からない、緑内障に使える点眼薬は1種類だけ。手術用の顕微鏡は角膜移植に使うだけで、ほかはすべて肉眼手術でしたね。今とは全く違う、本当にほとんど何も無い、何も分からないような分野だったんです。

--私は眼科の臨床現場を知っているわけではないですが、それでも今とはずいぶん違う状況だったのだろうなあと予想します。

 アメリカと日本は月とすっぽんで、1978年に国際眼科学会が京都で開催された時には、聞くこと見ることすべてが別世界のようでした。日本は明らかに遅れていて、アメリカとドイツが断然上だったんです。僕が研修医の時は、「生きているうちに一度くらいは英語の論文をアメリカのジャーナルに出せたらいいなあ」と夢物語のように考えるような、そういうレベルの差がある状況でしたね。

--逆に、先生はなぜ心臓血管外科に興味をお持ちだったんですか。

 生死に直結する領域であったということですかね。当時扱う疾患としては小児の先天性心疾患が多かったのですが、人工心肺のような大がかりな機器を使って病気が治せるというのは本当にすごいなと思っていたんです。小学校時代の友達が弁膜症を持っていて、一度目の手術の後は歩くこともままならないような状態だったのが、二度目の手術の後にはすっかり元気になっているのを見て「すごいなあ」と感じたのも影響していました。

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