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困っている「ひとり」に手を差し伸べる、総合診療医の信念と挑戦
―Dr. 進谷憲亮―

2021/3/8

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・左:インタビュアー(風間友里加) 右:進谷憲亮先生 
・文責:因間朱里

進谷憲亮先生(武蔵国分寺公園クリニック 総合診療医)
福岡県京都郡苅田町出身の進谷憲亮先生は、東京都内で在宅医療に携わる総合診療医として日々現場に立ちながら、NPO法人地域医療連繋団体.Needsの代表理事をはじめとし、医療の枠組みにとらわれない幅広い活動に携わっています。「一見バラバラかもしれませんが、僕の中ではすべてつながっています」と語る先生の行動力の源は何なのか。
開業を控え、地元・福岡に戻る直前の進谷先生の、2時間にわたった熱いインタビューです。

□■ 困っている人に手を差し伸べたい、大好きな人たちに恩返しがしたい

--進谷先生は、いわゆる「医師」としての仕事以外にも本当に幅広い活動を以前からされているなと思っています。

 確かに、やっている活動を具体的に挙げ始めたらキリがないかもしれません(笑)。でも、本業は医師ですよ。外来診療・在宅医療の形で、子どもからお年寄りまで誰でも診る、プライマリ・ケアに携わっています。

--医師としての仕事を含め、進谷先生が最もパッションを感じている活動はありますか?

 全部です!パッションを感じない仕事はやりません!活動は一見バラバラでも、僕の中では全部つながっているんです。
 これまでふわっとしか描けていなかった思いが言語化できるようになってきたのがここ2, 3年です。自分の根っこにある思いが言葉で表現できるようになったことで、確固たるよりどころが見つかってきました。

--そうなんですね!となると、先生の様々な活動には何か一貫しているテーマがあるんでしょうか?

 「困っている人に手を差し伸べたい」、ただそれだけです。例えば、医師として患者さんと接すると、初めは医学的な相談を受けることになります。でも、その相談の背景には、医学では対応できないような社会的な背景がいっぱいあるわけです。そうした、診察室の中だけではおさまらないことに対して、自分が色々やっている活動がふとした時につながる感覚があるんですよ。今であれば、東京都の診療所でプライマリ・ケアに携わっている経験が、病院での研修指導にも、地域の皆さんとの関わりあいにもつながっていますね。
 多分、僕は点をつなぎ合わせるのが得意なんだと思います。ある場面で出てきた課題や発想が、別の場面ですぐに結びつくんですよね。だから、機会をもらったら基本的になんでも挑戦するようにしています。そこで挑戦したことで初めて自分の中に生まれる価値観が、その後またどこかですごく活きてくる、そのパズルのような感覚が好きです。

--そんなテーマを持って医師になったきっかけがあればぜひ教えてください。

 小さい頃、実家ではペットに囲まれて生活していました。ペットが死んでしまったら庭に埋めに行くのは比較的普通だと思うんですけど、それだけではなく例えば道端で車に轢かれて死んでしまっているネコとかでも持ち帰って庭に埋めていたらしいんです。振り返ってみると子どものころから「死」というものが身近にあり、そこから「なんで生きているんだろう?」ということに関心があったのかなと思っています。そんなわけで、小学生の頃は、人間から動物を守るような、絶滅危惧種レンジャーになりたかったんです(笑)。でもだんだん、絶滅危惧種が生まれなくていいような人間の発展を目指したいという考えになっていき、「人間も動物も全部救えるようになる」と言っていましたね。
 一方で、僕は福岡県の京都郡苅田町というところの出身なのですが、地元愛のとても強い地域で、自分も小さいころからずっと「大好きな友達に、死ぬまでに恩返ししていきたい」と思っていました。そんな自分にとってすごくショッキングだったのが、中3の時に経験した先輩の死でした。死のつらさ、もろさのようなものを肌身で感じながら、「誰かが死ぬ寸前まで関われる職業ってなんだろう」と思った時に浮かんだのが医者だったんです。それが、僕が医者を目指した出発点だと思います。

--その地元愛というのは、今でも先生に影響を与えていますか。

 今年(2021年)の4月から九州に戻るんですけど、昔から「地元貢献がしたい」と思っていたからなんですよね。今のように深く考えていたわけではないですけど、それこそ中学生の時からずっと「死ぬまでこいつらに貢献したい」という思いは変わっていないです。
 地元愛と言いつつ、実際はそこにいる「ひと」に愛を感じているんだと思います。僕にとっての地元は、苅田町だけじゃないんです。研修時代、そして、今過ごしている府中市や国分寺市も、研修中に行った三宅島も、3年前に行ったカンボジアも、いま関わっている名古屋も、そこにいる人たちが大好きだから、全部僕にとっては地元です。今まで出会ったすべての人が僕に影響を与えているからこそ今の進谷憲亮があるし、みんなに対して恩義があると考えています。

--都会育ちの私にはちょっとピンとこないコミュニティ感のようなものを感じます。

 いや、言い換えれば僕にはコミュニティ感はありません。だってどこでもホームになりますからね。関わったことのある社会全てに愛着が湧いちゃうんです。

--進谷先生であればそのすべてのホームをつなげてしまいそうです。

 つなげたいです。そしてみんなに何かしらを返したいです。大学卒業後にあえて九州を離れたのも、外を知らないと本当の意味で地元を知ることができないし、外で学んだことが内で活かせるだろうと思ったんですよね。実際、苅田町だけで生きていたらいまの僕はありえないと思います。僕という1人の人間だけでもそれぞれのコミュニティで多くのことを学ばせてもらっているので、コミュニティ同士がつながったら互いに学びあえることが絶対にたくさんあるはずだから、つなげないともったいないです。

--田舎から、例えば大学で都会に出た時の衝撃って大きかったんじゃないですか?(笑)

 どうだろう、当時の僕はここまで考えていたわけでもないのでなんともですが…。ちなみに、高校生の時まで僕はものすごく人見知りで、ノリが悪かったんです。ずっとバスケットボールをやっていたんですけど、たとえ告白されたとしても「いや、部活命なんで」って言ってしまうタイプ。だから高校の修学旅行の時に女子から「進谷くんは優しいし、いい人なんだけど、ノリが悪い」って思われてるのを知った時に、「あ、俺に求められているのはノリなんだ」と気付きました(笑)。
 大学入学後は、コミュニケーションに自信がなかったこともあってあえて飲食業界のバイトをしていました。バーと居酒屋で働いていたんですが、「飲食店はただ食事を提供しているだけではなく、食事を楽しむ時間と空間をも提供しているんだ」と気付いたのは大きかったです。医療現場であれば、医師として自分が提供する具体的なものは医療行為だけかもしれないけど、コミュニケーションを取ったり空間を作ったりすることまで含めて医療なんだな、と感じるようになりました。
 そんなこんなで今ではこんな性格になりました。今思うと、性格が変わったというより、持っていたものが開花したんでしょうね(笑)